市ゆかりの芸術家

日本画

柴田 義董(1780~1819)

瀬戸内市邑久町尻海生まれ。
寛政6年父の死を機に意を決し、14歳で単身上洛し、京都四条派の松村呉春に師事する。若くして同派の画技を究め、人物・花鳥・走獣等に才筆を揮ったが、最も得意としたのは人物画であった。「花鳥の景文」「人物の義董」「山水の豊彦」と洛中の人々が四条派の三哲と評した。

竹久 夢二(1884~1934)

瀬戸内市邑久町本庄村の小さな造り酒屋に生まれる。本名茂次郎。
明治32年16歳で故郷を離れ、名門神戸中学に入学するが、家業が失敗し一家は福岡県八幡市へ移る。製鉄所で働く傍ら独学を続け、19歳で上京し、早稲田実業に入学する。
日露戦争中の明治38年に反戦の風刺画が「直言」に掲載され、同年「中学世界」で『筒井筒』が一等に当選する。これを機に学校を中退し、22歳でコマ絵かきの青年画家としてデビューする。
明治39年、早稲田鶴巻町の絵はがき屋でたまきと出会い、翌年結婚。妻たまきをモデルに眼の大きい、夢見るような夢二式美人画が生まれた。異国情緒をたたえ、哀愁漂う甘美な夢二式美人は、とくに若者の間で大流行し、新しい時代の女性のイメージとファッションになった。

吉田 初三郎(1884~1955)

京都生まれ。10歳で友禅図案師に丁稚奉公し、25歳のときに鹿子木孟郎に師事し洋画を学ぶが、鹿子木の勧めで商業美術に転向する。
大正3年に最初の鳥瞰図である「京阪電車御案内」が修学旅行中の皇太子(昭和天皇)から賞賛され、評判を上げる。以後、鳥瞰図製作の依頼が殺到し、日本各地の鳥瞰図を描く。「大正の広重」とも評されている。
昭和9年瀬戸内市牛窓町の観光振興用の鳥瞰図を依頼され、当地に2日程滞在して調査した。

東原 方僊(1886~1972)

瀬戸内市長船町福岡生まれ。明治43年頃に京都の竹内栖鳳の門に入る。
大正4年に「花林檎」が文展に入選し、以後毎回のように入選を果たし、第2回新文展で無鑑査となる。大正7年の文展出品作品「鶏冠花」は貞明皇后の御買上となる。
京都在住の小野竹喬や池田遙邨など岡山県出身画家で結成した「烏城会」の中心的存在であった。

妹背 平三(1901~1997)

京都市生まれ。昭和20年に瀬戸内市牛窓町牛窓に疎開し、その後岡山市瀬戸町に移住。
県展審査員など務める。日展入選19回。平成5年、三木記念賞受賞。

洋画

松岡 寿(1862~1944)

 岡山伊木氏下屋敷生まれ。明治5年に父の仕事の関係で東京へ移住し、川上冬崖に師事し、次第に絵に熱中する。
明治9年に工部大学附属美術学校に入学して洋画を学んだ。
明治14年にローマ美術学校附属自由学校に入学。明治16年に国立ローマ美術学校に入学し、人物画専門科を優等第1位で卒業。
明治21年に帰国し、翌年に洋画団体明治美術会を結成し、明治34年まで展覧会を開催する。
明治28年の内国勧業博覧会では洋画の主任審査員となる。
明治40年文部省美術展覧会の審査員となり、第7回まで務める。
大正2年には黒田清輝、森鴎外らと国民美術協会を設立し、民間からの美術運動を推進した。
大正10年には東京高等工業学校校長となる。
優れた画業だけではなく、美術教育・美術行政の分野と幅広く活躍した。

佐竹 徳(1897~1998)

大阪市生まれ。
大正3年に関西美術院に入り、鹿子木孟郎に師事する。
大正5年に上京して藤島武二が指導する川端絵画研究所で学び、翌年文展に初入選する。
大正9年には帝展でただ一人2点入選を果たし、翌年は特別賞を受賞する。
関東大震災に遭遇し、キリスト教の洗礼を受ける。
昭和4年には帝展で特選を受賞し、無鑑査となる。
昭和15年に奥入瀬を訪れ、以後約20年間活動拠点とし、「渓流の画家」と評される。
昭和21年日展で特選を受賞。同展審査員となり、以後9回審査員を務める。
昭和34年にはじめて瀬戸内市牛窓町を訪れ、大きく影響を受けたセザンヌが描いた地中海の風土と似通った、赤い土、光に溢れる瀬戸内の景観、オリーブの緑に魅せられ、活動の拠点を牛窓に移す。
以後、牛窓オリーブ園からの景色を中心に描き、日本芸術院賞を贈られるなど「オリーブの画家」として名を馳せる。
平成元年 中村彝賞受賞
平成2年 岡山県文化賞受賞
平成3年 三木記念賞受賞
平成5年 牛窓町名誉町民

大原 桂南(1880~1961)

瀬戸内市邑久町下笠加生まれ。
書を岡山師範学校在学中に学ぶ。
明治43年から岡山師範学校などに勤務し、生涯を書道教育に尽くし門下生は1万人を超える。
大正11年に黄微書道会(後の岡山県書道教会)を創設し、会長となる。
昭和23年には山陽新聞の題字を揮毫。
昭和29年 岡山県文化賞受賞

写真

緑川 洋一(1915~2001)

瀬戸内市邑久町虫明生まれ。
昭和9年にドイツ製のカメラのペルケオを購入する。
昭和14年頃、写真雑誌に応募を始め、「写真サロン」で入選を得る。
岡山市内で街頭写真展「銃後の生活」を開催するが、敗戦を迎え、昭和20年に司令部の命令で戦災写真のネガを焼却する。
昭和28年に二科展に出品し、写真部の二科賞を受賞する。
「瀬戸内海」「海のメルヘン」「日本の四季」「京都」「皇居」「竹久夢二・望郷の山河」など作品集・随筆集を約60冊出版。
作品はイギリスビクトリア&アルバート美術館、フランス国立図書館、東京都写真美術館などに永久保存される。
昭和38年 岡山県文化賞受賞
平成2年 三木記念賞受賞
平成7年 邑久町名誉町民

陶芸

岡本 英山(1881~1962)

岡山県美作市生まれ。
生家が日用品を焼く窯屋であり早くからろくろを扱い、明治40年から山口県や九州まで陶工として渡り歩き帰郷した。
大正元年再び京都や伊部で作陶活動を続け、大正7年虫明焼復興も兼ねて来窯。しかし、大正13年に廃窯。
昭和7年再び虫明に窯を築き、虫明焼の復興と名声を高めた。

黒井 一楽(1914~1996)

瀬戸内市邑久町虫明生まれ。
昭和8年に横山香宝に師事する。
昭和13年以後、日本各地で個展を開催し、虫明焼を広める。
昭和55年には岡山県重要無形文化財虫明焼制作技術保持者に認定される。
昭和61年 三木記念賞受賞

森 香洲(1855~1921)

瀬戸内市邑久町虫明生まれ。
文久3年に伊木氏より父が窯を譲り受け、明治元年に真葛宮川香山が窯を訪ねた際に3年間指導を受け、陶工となる。
名声を得たが、長くは続かず明治13年に廃窯。
明治15年に黒井覚弁師の支援を受けて再興を図ったが、明治19年に同師へ窯の権利を譲る。
明治28年に地元の有力者に呼びかけ再興を図り、虫明焼固有の味を出した代表的な作品を数多く生産したが、明治32年廃窯した。
大正7年に備前焼陶器株式会社虫明工場が設立されると工場長に迎えられたが、備前焼と同時生産した関係でしばらく務めた後に辞職した。
虫明焼中興の祖である。

森 陶岳(1937~)

岡山県備前市伊部生まれ。
昭和34年に岡山大学特設美術科を卒業する。
昭和41年から日本工芸会正会員となり、日本各地で個展を開催し、また国内各種展覧会に招待出品するなど優れた作陶技術が高く評価される。
昭和59年にドイツでの「現代日本の伝統工芸展」に出品するなど、世界の場でも日本を代表する陶工として出品される。
昭和47年には大窯での古備前復興を目指し、昭和55年には瀬戸内市牛窓町長浜に居を構え、50mの大窯の築窯し、昭和61年に初窯出しされる。
現在は90mの大窯を築窯し、古備前復興を目指す。
平成8年 岡山県重要無形文化財保持者として認定される。
平成18年 三木記念賞受賞

横山 香宝(1869~1942)

瀬戸内市邑久町虫明生まれ。
明治16年に森香州に師事する。以後、兄喜代吉(初代香宝)とともに香州の裏方として支える。
香州、兄の死後、昭和7年地元有志の協力を得て瀬溝に築窯し独立する。
2代目香宝を名乗り、年5~6回窯をたき、虫明焼の発展につくした。
昭和9年には弟子であった黒井一楽に窯を譲り、指導のかたわら手伝いをした。

人形

竹田 喜之助(1923~1979)

瀬戸内市邑久町尾張生まれ。
昭和25年に糸あやつり人形劇を観劇し、日本の伝統文化を守り通そうとする座長の心にひかれ入座。
昭和30年に兄弟子(竹田扇之助)と竹田人形劇団を旗揚げして、竹田喜之助となる。
昭和32年に代表作「雪ん子」が完成。
生涯制作した人形の数は2600体に及ぶ。
国内公演はもちろん、海外公演で高い評価を得た。
昭和30年 東京都指定無形文化財に認定
昭和32年 文部省芸術祭優秀賞受賞
平成3年 邑久町名誉町民