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虫明焼について

更新日:2021年3月6日更新 印刷ページ表示

虫明は、邑久町(現在の瀬戸内市邑久町)の東端近くに位置し、瀬戸内海に面し、しかもリアス式海岸であるため、古代・中世には風待ち、潮待ちの港町として栄え、また曙の美しさから古くから詩歌に詠まれるなど風光明媚なところとしても有名である。
 この地に生まれた虫明焼は、鉄絵に土灰釉(虫明では並釉と呼ぶ)を掛けた薄作りの茶碗・水指、乾山風の赤絵鉢、灰釉と鉄釉を掛け分けた徳利などに加え、白磁染付のものも見られ、しょう洒で洗練された作風が、岡山県内では大変珍しい存在となっている。
 虫明焼の起源は、江戸時代中期、この地に居を構えていた岡山藩筆頭家老伊木家が、御船入所の近くで焼いていた御庭窯だと言われている(瀬戸窯時代)。当然茶道具中心と考えられるが、伝世品から判断してやや疑わしい。

虫明焼きの画像1
​江戸後期に文政年間以降、少し内陸部に窯が移る(池の奥窯時代)。大・小2つの登り窯があったと言われ、小窯の方が御窯で、大窯は民窯で日常雑器が焼かれていたと想像できる。小窯の方には、有名な京焼の陶工、道八2代仁阿弥または3代道翁が、讃窯へ途次来窯した伝承もある。大窯の方は、天宝4年(1833年)前後、地元の今吉吉蔵という人が、播州竜野の陶工を雇って作陶したということである。ところがこの窯では、備前焼写しをも焼いたため、伊部の窯元から藩へ訴えられ、虫明窯の責任者が処分され、天保13年(1842年)にはとうとう廃窯となったということである。

虫明焼きの画像2
​弘化4年(1847年)には、村内立場に、茶人としても有名な、伊木家第14代伊木忠澄(1818年~1886年、のち三猿斎と号す)が御庭窯を開く(立場窯時代)。開窯には京都から初代清風与平(1803年~1861年)を招き、主として古染付や李朝写しの茶碗、赤絵の鉢などを焼かせ、自身も手捻りなどを楽しんだ。太田コレクションナンバー28の『菊絵菓子鉢』は、鉄・白土による下絵、五色の顔料による上絵を丁寧に施しており、清風の虫明窯での代表作といえよう。またずっと後年になって、同じく京都の名工宮川香山もこの立場窯に来窯した。香山は、虫明焼の名声を今日まで残した恩人ともいうべき人物で、この窯で清風同様御本写し、染付、赤絵などを焼いた。

虫明焼きの画像3
​時代は少し遡るが、幕末動乱期の文久年間、優雅な暮らしをしている余裕のなくなった忠澄から、虫明の郷士森角太郎に立場窯が譲られ、民窯として再出発することとなる。この窯には播磨の陶工が招かれ、宮川香山の来窯時には、息子彦一郎共々陶技を授かる。森彦一郎は、香山の「香」1字をもらい香洲と号した。そして、窯の経営者兼陶工として虫明焼の隆盛に努めた。その後、経営難で一時途絶えるが森香洲によりその復興が画策される(香洲窯時代)。香洲は明治13年(1880年)、横浜で作陶していた宮川香山を訪ね再び陶技を学び、帰郷すると窯の再興のため苦闘する。経営者としては、資金操りや人間関係面で失敗・挫折の連続であったが、陶工としては優れ、主として薄作りの茶碗・水指・煎茶器などに多くの秀作を残す。太田コレクションでもこの香洲の作品が最も多く、68件中21件を占める。

虫明焼きの画像4
​昭和に入り、同7年(1932)、廃窯中の虫明焼を復興するため有志が相談し、英田郡出身の陶工岡本英山を招く。英山の作品はほとんどが茶碗、水指などの茶陶で、繊細さ、優美さを売りにしていた従来の虫明焼に素朴さ、力強さを持ち込んだ。太田コレクションにも7件含まれている。
その後、香洲の弟子であった2代横山香宝が、昭和5年虫明の瀬溝に築窯し、清風や香山を写した優雅な作品を焼いた。以後、現代までに香宝の弟子黒井一楽(岡山県重要無形文化財保持者、故人)、その子の黒井慶雲・千左、瀬戸窯森香泉、忠澄茶亭跡の松本学などの作陶が見られる。

(以上、邑久町史文化財編より抜粋)

邑久町史文化財編(平成14年8月31日発刊)には、太田コレクションすべての写真(フルカラー)とデータ表が掲載されいます。定価2,500円(税込)で中央公民館事務室で販売しています。見本も用意していますので、お気軽にお問い合わせください。