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市ゆかりの芸術家(日本画)

更新日:2020年12月16日更新 印刷ページ表示

柴田 義董(しばた ぎとう)

1780年~1819年
瀬戸内市邑久町尻海生まれ。
寛政6年に父を失ったことを機に14歳で単身上洛し、京都四条派の松村呉春に師事する。若くして同派の画技を究め、人物・花鳥・走獣等に才筆を揮ったが、最も得意としたのは人物画であった。「花鳥の景文」「人物の義董」「山水の豊彦」と洛中の人々が四条派の三哲と評した。

竹久 夢二(たけひさ ゆめじ)

1884年~1934年
瀬戸内市邑久町本庄村の小さな造り酒屋に生まれる。本名茂次郎。
1899(明治32)年に16歳で故郷を離れて名門神戸中学に入学するが、家業が失敗し、一家は福岡県八幡市へ移る。製鉄所で働く傍ら独学を続けた夢二は、19歳で上京し、早稲田実業に入学する。
日露戦争中の1905(明治38)年に反戦の風刺画が「直言」に掲載され、同年「中学世界」で『筒井筒』が一等に当選する。これを機に学校を中退し、22歳でコマ絵かきの青年画家としてデビューする。
1906(明治39)年、早稲田鶴巻町の絵はがき屋でたまきと出会い、翌年結婚。妻たまきをモデルに眼の大きい、夢見るような夢二式美人画が生まれた。異国情緒をたたえ、哀愁漂う甘美な夢二式美人は、とくに若者の間で大流行し、新しい時代の女性のイメージとファッションになった。

吉田 初三郎(よしだ はつさぶろう)

1884~1955年
京都生まれ。10歳のとき、友禅図案師のもとで丁稚奉公を始める。25歳のときに鹿子木孟郎(かのこぎたけしろう)に師事して洋画を学ぶが、鹿子木の勧めで商業美術に転向する。
1914(大正3)年に最初の鳥瞰図である「京阪電車御案内」が修学旅行中の皇太子(昭和天皇)から賞賛され、評判となる。以後、鳥瞰図製作の依頼が殺到し、日本各地の鳥瞰図を描く。「大正の広重」とも評されている。
1934(昭和9)年瀬戸内市牛窓町の観光振興用の鳥瞰図を依頼され、当地に2日程滞在して調査した。

東原 方僊(ひがしはら ほうせん)

1886年~1972年
瀬戸内市長船町福岡で呉服と染物を生業とする「紋屋」東原善七の次男として生まれる。本名は東原直太。
幼少より絵の才能に富み、地元の画家に師事しながら通いで修行をしていた。20歳で満州へ従軍したのち、3年後に除隊。
1910(明治43)年頃に京都の竹内栖鳳(たけうちせいほう)の門に入る。
1915(大正4)年に第9回文展で初入選して以降、文展で3回入選。第12回文展入選作品「鶏冠花」は貞明皇后の御買上となった。
その後、第2回新文展で無鑑査となる。
草木や鳥を題材とした作品を得意としており、特に「雀」はまるで生きているかのように表情豊かに描く。
京都在住の小野竹喬や池田遙邨など岡山県出身画家で結成した「烏城会」の中心的存在であった。

妹背 平三(いもせ へいぞう)

1901年~1997年
京都市生まれ。昭和20年に瀬戸内市牛窓町牛窓に疎開し、その後岡山市瀬戸町に移住。
県展審査員など務める。日展入選19回。平成5年、三木記念賞受賞。

佐竹徳画伯

備前長船刀剣博物館

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